アルプスの国スイス。国面積土の3分の2を山々に囲まれ、ほぼ日本の森林面積(約7割)と同じ地形条件である。 スイスは観光という国家戦略と人々の知恵やアイデアにより、山間地域に雇用と経済を生見出した。スイスの観光史からその理由を考察してみた。 スイスの観光の歴史は、18世紀後半に欧州に広がった自然崇拝のロマンチシズムの影響で文学や美術表現が上流階級の間で影響を与え、やがてアルプスの山々まで広がっていったことにはじまる。1811年にはユングラフを皮切りにスイスの高峰は登山家たちによって制覇され、1865年にはマッターホルンが初登頂、そして1863年、アルプス研究や宿泊施設の整備を目的としたスイスアルペンクラブ(SAC)が設立された。19世紀半ばには、鉄道や馬車と宿泊を組み合わせた、いわゆる現代の旅行業の創業者であるイギリスの実業家トーマスクックがスイスを訪れ、一気にスイスの山岳観はブームとなった。1882年には、山岳地帯の急勾配に対応するアプト式鉄道が開発され鉄道を利用しての登山が楽しめるようになった。僅か6年後には、スイスアルプスの絶景が満喫できるリギ山の山頂まで、その後も次々と山岳鉄道路線が整備され観光客を魅了し続けた。1912年に完成した「ユングフラウ登山鉄道」は、アイガー山中のトンネルを抜け、ヨーロッパ(アルプス)の最高地点のユングフラウヨッホ駅まで結ぶ登山鉄道が完成、当時、近代土木工学の技術の粋を集めた登山鉄道として世界を驚愕させた。 サンモリッツはかつて、アルプスの交易に訪れる旅人の宿場であったが、1864年には日照時間の長さPR、ウインタースポーツのメッカとしての地位を築いた。当時スポーツを好む貴族等の利用を見込み次々に高級ホテルが建設された。なかでも1896年開業のバドラッツ パレス ホテルは、創業して以降常に華やかさと魅力を放ちオードリー・ヘップバーンやチャーリー・チャップリンなどの著名人をはじめ現在でも富豪たちが訪れている。現在でもそのホスピタリィと風格を放っている。駆け足であるが18~19世紀を中心にスイスの観光の推移を紹介してきたが、今後の日本の観光戦略としても参考になるところがある。まず、18世紀後半欧州に広がったロマン主義は、空想的な世界への憧れ的要素が貴族達に旅の大義を創りだした。そして現代旅行業の仕組みを創ったトーマスクックの存在、現代の医療ツーリズムに相当する保養地としての役割。そしてなにより驚かされることは、冒険家のみが征服できる非日常空間のアルプスの山頂まで僅か100年余りで鉄道を敷き、誰もが訪れる日常観光としてのインフラ整備を実現した技術と地域の決断にある、日本の観光の発祥が信仰的な、江戸時代の富士山参りであると言われている、経済の為に山を切り開いたことに対して様々な見解はあるが、いずれにしてもインフラ整備の偉業が観光を発展させたことには間違いない。そして、サンモリッツに見られる、これまでシーズンオフであった冬の山岳地帯にウインタースポーツのきかけを創り出した。スイスの観光施策の考察をすると、スイスの観光の発展にはひとつの共通点がある。爆発的に飛躍した観光の発展は、山岳鉄道や交通機関を旅行者目線で開発した計画と高い技術いわゆるハード整備である。そしてサンモリッツに見られるウインタースポーツのブランド化、トーマスクック等、旅行のブームの火付け役の存在、そして何より、地域に暮らす人のアイデアに沿って開発や整備がされていることにある。観光立国スイスの成功の鍵は、観光に対するハード整備とソフト整備のバランスがとれていること、そして山間地に暮らす人達の行動から始まっている。アイデアによる行動が観光産業の発展のエンジンとなっている。 国際ジャーナリストロレンツ・ストゥッキ著「スイスの知恵/吉田康彦翻訳」の冒頭「スイス成功の秘密は何か(まえがき)」を抜粋して紹介したい。 ―自然は、スイスを世界で最も貧しい国のひとつにした。水力のほかは、これといったエネルギー資源はほとんどない。この湖の多い山国で、農耕地に使える土地はスイスの全住民を養うにはとうてい足りない。(抜粋)―この不利な自然条件こそが、海から隔絶され、常備軍もないこの小国を、原材料を安く輸入して高価な物資に作り替え、国外に輸出して多大な利益をあげるという経済努力へと駆り立てることになったからである。この努力を遂行するにあたっては、国外貿易と国内の固有の産業の双方において、創造性とねばり強さ、勤勉と冒険心とを兼ね備え、あらゆる機会を捉えて、変貌する世界にいかに適応したらよいかを理解し、幾多の苦難と危機に耐え、これを克服し得るような人物を必要とした。 ―観光産業の発展に最も必要なことは、今も昔も変わらず人材である。
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